1950’s

ブランドの始まりは、1953年。ローラ&バーナード・アシュレイ夫妻がキッチン・テーブルで生地のプリントを始めたことがきっかけでした。ある時、ヴィクトリア&アルバート博物館で全英婦人協会が開いていた伝統工芸品の展覧会を鑑賞したローラは、自分でパッチワークキルトを作ろうとしましたが、どこのお店でも気に入った生地が見つかりませんでした。そこで、進取の気性に富んだ若い夫妻は自ら生地を作ることにしました。10ポンドを費やし、スクリーン用の木材、染料、リネンなどを購入し、生地にプリントする方法を学ぶために図書館に通い、自分達の手で生地作りをスタートさせたのです。
「ローラ アシュレイ」として最初に作ったものは、幾何学模様の四角い布。当時、夫妻の住んでいたロンドンの小さなアパートの限られたスペースをモチーフにしたものでした。その頃、世界各地で映画「ローマの休日」が公開され、ヒロインを演じたオードリー・ヘップバーンのヘッド・スカーフがイタリアの若い女性達の間でブームを巻き起こします。1952年、旅先のイタリアでそのことを知ったローラは、自分達の手でも小さなスカーフを作る方法も技術も持っているということに気づきます。その後、夫妻が作ったヘッド・スカーフは、ジョン・ルイスやヒールズといった店舗でたちまち好評を得ました。そしてロンドンの目抜き通りにある主要な店舗において短期間で大量販売することに成功しました。
1954年、バーナードの苗字とローラの旧姓を組み合わせて「アシュレイ・マウントニー・カンパニー」を設立。しかし“商品のことを考え女性らしい名前が相応しい”というバーナードの意見を反映し、社名を「ローラ アシュレイ」に変更しました。
1955年、より多くの生地のプリントを行うための広いスペースを求め、そして事業拡大のためにも田園の広がるケント州へと移り住みます。1958年にはダレント川が氾濫し、プリント機械、染料そしてファブリックは3フィートの水に浸水し彼らの事業は危機に瀕しました。当時、ビジネスで得た利益はすべて事業に再投資していた為、アシュレイ・ファミリー(この時までにローラには4人の子供のうち3人が生まれていました)にとっては大変困難な時代でした。一方、ロンドンにショールームをオープンし、新しく生産を始めたエプロン、オーヴン・グローブ、ガーデニング用スモック等、より多くの商品がローラ アシュレイの名のもとに販売されるようになっていきました。

1960’s

1960年、「ローラ アシュレイ」にとって飛躍の年となります。アシュレイ一家と会社は、ローラが生まれた故郷、子供時代の楽しい思い出のあるウェールズに移ることにしたのです。当初夫妻はマハンスレスの自宅の1階に小さな店舗を構え、地元産の蜂蜜や散歩用のステッキなどとともに自分達の商品を販売します。また、縫製のできる人を雇い入れ、シャツやガーデニング用のスモックを作り、ファッション業界への進出に備えました。1967年には、カーノ駅近くに移り、会社の基盤を造ります。初めは、モンゴメリーシャーのカーノの小さな村にあった、使われていないソーシャル・クラブを工場にしましたが、同年、向かいにあり2年前から閉鎖されていた村の鉄道駅舎に移りました。バーナードが独自に平台のプリント機械を開発したことで、1週間に5,000メートルのファブリックを生産することが出来るようになり、ビジネスは拡大していきます。そして、1966年、最も重要なことが始まりました。ローラが初めてドレスを作ったのです。それは仕事着というよりはクラシックなシルエットのドレスでした。長い丈のシルエットはローラ アシュレイのトレードマークとなりました。1960年代後半、流行はミニからマキシスカートに変わっていたので、これはローラ アシュレイ社にとっても良い結果をもたらすことになりました。1968年、ロンドンで初めての「ローラ アシュレイ」ショップを、南ケンジントンのペラム通りにオープンしました。当初お客さまはさっぱり入りませんでしたが、バーナードが地下鉄の駅に100枚の広告を貼った結果、売上は記録的に伸びます。

1970’s

1970年代に入ると、年間の売上は30万ポンドに達し、シュルーズベリーとバースに新たに店舗をオープンしました。ロンドンのフルハムロードエリア内では、たった1週間で4000枚のドレスが売れました。そして、ある新聞が“ローラ アシュレイを着れば女性は、映画「明日に向かって撃て」のキャサリン・ロスのように美しく見えるであろう”と書いたことでさらに評判を得ることになりました。1971年、英国内での発展が続く一方、ライセンシング・オペレーションによりオーストラリアそしてカナダの百貨店に店舗をオープンすることになりました。1974年、初めてパリにオープンした店舗は、第1日目で売り切れとなってしまいました。同年、ローラ アシュレイはサンフランシスコに店舗をオープンすることで米国への進出を果しました。しかし、独特なグリーンの店構えと縞すじのある木目調のインテリアの 店舗を最初にオープンしたのはパリの店舗でした。
1975年迄に、誰もが予想しなかった速さで成長し、売上は年間5百万ポンドとなり、世界中で1000人の従業員を雇用していました。ローラはバッキンガム宮殿から大英勲章授与の申し出を受けましたが断りました。(バーナードには授与の申し出がきたことはなかったのでローラは狼狽したのです。)しかし、1977年、優秀な輸出実績を残した企業に与えられる女王賞についてはつつしんで受けました。売上の伸びはグラフの頂点を超え続け、パフュームの発売と共に25周年を迎えた1979年、ローラ アシュレイ社の売上は25百万ポンドに達していました。

1980’s

さらに、ウェールズからフランス北部に引っ越したアシュレイ夫妻。このことが、ローラにまたも大きな影響を与えることになります。新商品のスタイルはより一層華やかになり、美しい田舎の邸宅を思わせるデザインへと傾倒していきます。新しい環境に感化されたローラの関心は、ファッションから再びホームファニシングへと移り、1981年には最初のホーム・ファニシング・カタログが発行されました。インテリアデザイン市場を目指し、1982年には、さらに斬新なデザインとプリント柄による「デコレイター コレクション」を発表。 その後も「ローラ アシュレイ」スタイルの追求を求め続け、1983年には「ザ・ローラ・アシュレイ・ブック・オブ・ホーム・デコレイティング」が出版されました。
世界各国での新店も順調に進み、1985年には日本で第一号店がオープンし、ローラもバーナードと共に初めて来日しました。
しかし、悲劇は突然やってきました。1985年、60才の誕生日に英国にいる子供達を訪ねていたローラは階段から落ち病院に運び込まれましたが、10日後にこの世を去りました。大変悲しく残念なことでした。しかし、ローラの名前は彼女が創り出した事業を通じて生き続けます。2カ月後、ローラ アシュレイ社は証券取引所に株式を上場しました。株式公募に対し多くの人からの申し込みがあり、34倍もの倍率となり、会社に対する期待や情熱が示される中、1980年代後半には、バーナード アシュレイに爵位が授与され、ロンドンの一等地に店舗をオープンし、“マザー&チャイルド コレクション”及び高級なホーム ファニシングの商品群である“ローラ アシュレイ ホーム コレクション”をそれぞれ発表しました。

1990’s

1993年、ローラ アシュレイ社は創立40周年を祝いました。同年、サー・バーナードは会長を退任し、1998年迄名誉終身社長を勤めました。
1998年5月、MUI Asia Limited.がローラ アシュレイ社の大株主となり、ローラ アシュレイ社に再び繁栄をもたらすことを約束しました。そして、チーフ・エグゼクティブ・オフィサーのリーダーシップのもと、この世界的に有名なインターナショナル・ブランドは再び利益を取り戻していきました。総合的な戦略は、ローラ アシュレイのブランド価値に忠実でありながら、ブランドを現代に相応しいものにすることに焦点を当てることです。主要な役割としては、中心となる商品群に焦点をあて、お客様のニーズにあった商品を開発することがあります。また製造においても、又、英国及びヨーロッパの大規模な店舗改装計画の為に投資がなされ、ブランドイメージを明確にし、かつ統一する為に有効な広報戦略が行われ、しっかりとしたブランド戦略の基礎を作り上げています。そしてローラ アシュレイ社はこの基礎のもとに前進を続けています。

2000’s

2001年10月、ローラ アシュレイ社は更なる躍進として、公式ウェブサイトを立ち上げます。これにより顧客だけでなく新しいお客様への新しいショッピング体系をもたらしました。2003年には、売上成長とホームカタログの完成度の高さが評価され、[The European Mail Order Days Award]で受賞します。2005年には壁紙、オーダーメイド・カーテン、ブラインド、ペイントをウェールズのニュータウンとポーイスにある工場に移行し、ブランドの主要カテゴリーとなっています。
現在、「ローラ アシュレイ」はイギリス、アイルランドに200店舗以上、そして、世界中でのフランチャイズ・オペレーションにより、極東、オーストラリア、スカンジナビア、ヨーロッパ、南アメリカに250店舗以上持ち、インターネットビジネスもより成長しています。また、ライセンス事業も拡大し、カーペットやアイウエア、タオル、タイルなどのライセンス製品も増え続けています。
すべての市場で、「ローラ アシュレイ」ブランドを愛する人々との関係を大切にしながら、確かなブランド アイデンティティと伝統を守り続けるとともに更なる発展につとめています。